TOP>コラム


爽快倶楽部編集部


2014..5.1
ありがとう
ふと、思い立って、「人生の意義」をインターネットで検索してみた。するとウィキペディアの記載が目に入った。
少し長いが、紹介する。

傍から見ると特に何の問題もない人で、むしろ財産・地位・家族などについては恵まれた状態の人に、このような問いで悩む人が多くいる。若いころに、「財産・地位・家族などを手に入れれば幸福になれるに違いない」と思い込み、ひたすら頑張ってきたのに、いざそれらを手に入れてみると、まったく幸福という実感が無く、自分の人生に「大切な何か」が欠けている、という気がして仕方なくなり、「人生のむなしさ」を痛感する人が多いのである。 この段階で、あらためて「残された人生で、私は何をすることを求められているのだろう?」「自分の人生を意味あるものにするためには、今後どう生きてゆけばいいのだろう?」という問いに真正面から向き合うことになるのであり、そして老年期にも、このような問いが心をとらえることがある、と諸富は述べる[3]。 神谷美恵子は以下のことを指摘する。 「自分の存在は何かのため、またはだれかのために必要であるか」という問いに肯定的に答えられれば、それだけでも充分生きがいをみとめる、という人は多い。老年期の悲哀の大きな部分はこの問いに充分確信をもって答えられなくなることにあろう。よって老人に生きがい感を与えるには、老人にできる何らかの役割を分担してもらうほうがよい。また、愛情の関係としても老人の存在がこちらにとって必要なのだ、と感じてもらうことが大切である。(ウィキペディア−人生の意義 より抜粋)

神谷美恵子による指摘 − 「自分の存在は何かのため、またはだれかのために必要であるか」という問いに肯定的に答えられれば、それだけでも充分生きがいをみとめる、という人は多い。老年期の悲哀の大きな部分はこの問いに充分確信をもって答えられなくなることにあろう。

老年期に入った者は、ときにそうした思いにとらわれることがある。自分が自分以外のなにか、あるいはだれかのために存在するという確信の喪失、またあるいは、多くの友人、知人の死に立ち会って、なおも生かされている自分とはなにかという問いの答えを、持つことができない、この苦悩の煉獄の中で、人は、どんな光を持ちうるだろう。

答えを持たないものは、残された人生の中で答えを作っていくべきなのだろう。生まれるときもひとり、最期のときもひとりである。最期のときに、誰かが自分の手を握り、「ありがとう」といってくれる自分になれるかどうか。いまの自分には、その確信はない。

これは,愚かな夢なのであろうか。




TOP>コラム



Copyright 爽快倶楽部