2012..3.1 |
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武士道といふは、死ぬ事と見附けたり |
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ソチ・オリンピックの最初のショート・プログラムで惨憺たる結果となった女子フィギュアの浅田真央選手、フリーでは、一転してまさに奇跡の演技を見せ、世界各国から賞賛を受けたのはご存知のとおり。日本の代表として、同時にメダル獲得の最有力候補として演技に望んだ彼女、本人がどれほど意識していたかはわからないが、自分への期待に必ず勝たねばならぬという重圧がショートプログラムの結果となったのであろう。この16位という結果が、むしろ彼女の心から勝つという欲、勝たねばならないという義務感をを取り去ったのかもしれない。自ら無になって、自分本来の力のままに演技する、それが賞賛される演技となったのであろう。これだけのことを、いったいどれだけの人が出来るのか、彼女に人の生き方を教わった若者達は少なくないと思われる。
「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり。 二つ一つの場にて、早く死方に片付くばかりなり。 別に仔細なし。 胸すわつて進むなり。 図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ちあが上りたる武道なるべし。」、葉隠の一節である。この言葉、多くの場合、死を美化するものとして誤解されている向きがある。云わんとするは、生か死かのときに、生に欲をもっては生き残ることはできない、己に死を覚悟させてこそ、おのずから生への道がひらけるものであると思う。我等は、美麗なる一人の女性から、これを教えられたように思う。
世の右翼、あるいは極右と呼ばれ得意げとなっている政治家諸君、君達にはたして、彼女のように死地における平常心を持って大事を成し遂げることができるだろうか?少なくとも靖国に祀られた英霊は、それを見ていよう。 |
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