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爽快倶楽部編集部


平成23年3月1日
死というもの
死は、実にありふれていて、同時に不思議な出来事である。
人間が生を受け、成長を続け、やがて、その生が停止するときが来る。誰もが知っている自然な出来事である。生は経験することができ、生の時間を認識し、語ることができる。が、死も、恐らく同様であろうが、その経験と認識を語ることができない。かって、ある哲学者が「語りえぬことは、語ってはならない」と云っていたが、もちろん、語りえぬことは別の事であろうが、文字通り、そういうものが死であるかもしれない。
他者の死も同様である。多くの場合、他者の死に立ち会うのは肉親の死についてであろう。極端に言えば、昨日、元気で笑いながら話していた肉親が、今日は骸となって冷たく横たわっている、紛れもない死がそこにはある。が、その死は、あくまでも自分ではない他者の死であって、死にゆく者のにとっての死の体験を共有できたわけではない。それは、現実には違いないが、自己にとっての外的死であり、内的死ではない。結局、死、そのものは、誰にもわからない-少なくとも生きている人間にはである。
3年前に、父が死んだ。幸いにも、臨終には間に合った。心臓の動きを表すモニターの動きが止まったのを見た。眠るように死んだ。父の死がそこにあった。その死を前にして、自分はなんの悲しみの感情を持たなかった。涙も出てこなかった。2~3時間ほど経って葬儀社が父の骸を引き取りに来た。そのときに簡単な焼香をした。そのときも、悲しみを感じなかった。葬儀の打ち合わせ行って、病院を出た。生前の見舞いの時には、病院前の停留場からバスに乗るのだが、無性に歩きたくなった。それで、停留所2つほどを歩いてバスに乗った。10分ほどすると海が見えた。海は光に輝きおだやかだった。具体的な記憶はそこまでである。後は、電車に乗り換え自宅に帰った。
今、思えば、今現在もそうであるが、自分は父の死を受け入れることができないでいる。思い立って、電話でもすれば「よう、元気か」と、父が答えてくれるような気がする。
死とは、不思議な出来事である。
爽快倶楽部 編集長 伊藤秀雄




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