TOP>コラム


爽快倶楽部編集部


平成22年5月1日
思想の不在
思想、あるいは哲学は、およそ人類が言葉を持ち始めた頃から存在する。文明が始まった頃なのか、それ以前なのかは判然としない。それは史学者、考古学者にゆずるとして、この思想、あるいは哲学が一貫して扱ってきたことは、人間とは何か、社会とは何か、神とは何かであろう。それらは、古代中国、インド、エジプト、ペルシャ、ギリシャ、ローマにおいて、語られ記されてきた。ときに広義の哲学として、宗教としての形をとった。その形象は近代まで継続されてきた。宗教は、この現代において明確に存在する。人々の信仰がそれを支え、信仰を媒介として宗教に語られた思想が素朴な形で引き継がれて来た。仏教、キリスト教、イスラム教がそれである。哲学はどうであろうか。ギリシャにおいて語られた命題は、今も存在する。中国において提出された老子、孔子、禅などの哲学的命題もまた、厳然として今も存在し、あらゆる時代において、それらに対する解答の努力がなされてきた。人間、社会に関する問いは、恐らくは人がある限り存在する永遠の命題であろう。が、仮に唯一の解、即ち真理解に到達できないとしても、思索は有意である。現代において、その命題に対する解答の努力は近代までなされてきたそれに比べて輝いていないように見える。かってあったような、認識論、言語論、論理学、歴史哲学、科学哲学、倫理学など、この現代において有意なる思索が見当たらない。
最早、すべて語られ尽くしたのであろうか。あるいは、思想を必要としない時代となったのであろうか。
思想の不在、これが現代の病理である。
爽快倶楽部 編集長 伊藤秀雄




TOP>コラム



Copyright 爽快倶楽部