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爽快倶楽部編集部


平成22年4月1日
還暦に思ったこと
自分は、今年60歳となった。還暦の歳である。母は今年86歳になった。母の言によれば、自分がこの歳まで生きるとは思っていなかったとのことである。それは、自分が1歳になる前に肺炎を患い、医者が生きるか死ぬかの瀬戸際、本人の生きる力を待つしかないということを云われたということによる。もちろん、母の必死の看病があって、今日の自分があることは云うまでもない。
ところで、自分は、この母の実子ではない。自分はすでに他界した父の妹の子でである。実の父親の名前は知らない。実母は、自分を私生児として産み育てようとしたが、昭和25年のことである、貧困の中で思うようにならず自分を父に預けたのである。自分は、養子をとして父の戸籍に入り、実際、実子に違わぬように育ててもらった。このことを知ったのは、自分が大学に上がるときだったと思う。実母は、それまで一年に一度くらい、自分の家に遊びに来ていたが、兄の妹、すなわち千葉大原のおばさんとして知らされていただけである。その実母も父が他界する1年前に亡くなった。父から実母が大病で療養中と聞いて、会いに行かねばならぬと思い予定を立てている間に、大原の役所から実母の死を知らされた。死に目に会うことができなかった。また、実母が生活保護を受けており市民住宅で暮らしていたことを知らされた。すぐに大原に行き火葬の手続きをした。火葬の前に、実母の冷たくなった手を握った。火葬が終わるのを待っている間、立ち会いに来てくれた同じ市民住宅に住んでいる人々と話をした。実母は、男の子供が一人いると話していたことを知った。遺骨は大原の寺に一時預けて帰ってきた。翌週、再び大原に役所の手続きや遺品の始末に行き、実母が暮らしていた部屋に入ったが、自らの死を悟っていたように、きれいにかたずいてあった。暮らし向きの道具や衣服は市民住宅に住んでいる人々に分けてもらった。アルバムだけを持って帰ってきた。そこには、まぎれもなく自分を抱いた実母の写真、実母の歴史を物語る写真があった。
実母は幸せに暮らしていたかどうか、その実は知らない。が、共に暮らしていた市民住宅の人々の言葉によれば、決して不幸せではなかったと思う。自分は、実母のために何もできなかったが、悔いはない。今は、ただ、共に暮らす養母との暮らしを大事にしたいと思っている。それが。実母への思いにもなると考えている。
実母は今、父と同じ墓に眠っている。
爽快倶楽部 編集長 伊藤秀雄




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