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爽快倶楽部編集部


平成22年3月1日
文学は何処へ行ったか
ここ数年、恐らくはもっと前からのことだと思う。現代の作家、とりわけ若い作家達の作品にほとんど魅力を感じない。読者としての私が老いてきた為にそう感じるだけではなと思う。現代の作品の多くにに共通することだが、自然も含めて周囲の状況がほとんど書かれていない。主人公の置かれた状況があまりに乾いている。そこには、温度、湿度、空間の広がり、匂い、音がない。ゆえに色彩感がない。小説は基本的に人間を描くものであるが、その人間が存在する物理空間が書かれていない。そうした作品に存在するのは浮遊する意識だけである。
以前、川端康成を読み直していると書いたことがある。彼の文書論の中にモーパッサンのことが書いてあって、そこからゾラ、フロベールと辿っていった。もちろん訳本によったが、それでも、とりわけフロベールには驚きを感じた。現代の作品が持っていないものをすべて持っていると云って過言ではない。彼の作品は映像のようである。これは自然を、町を、人間を描いても同様である。フロベールを志賀直哉がどれほど読んでいたか、影響を受けたかは知らないが、フロベールには、その後のあらゆる文学作品に影響を与えたと思うほどの、明晰な文章力、文体がある。
今、文体と云ったが、現代の作品には、この文体が喪失しているのではないかと思う。これは川端康成が小説における文体ををいかに重要視したかにも通低しよう。表現のための確かな文体、それがないがゆえに、作品の中に現実性がない。作品の中の人間が生きていない。作品の中に自然がない。読者が作品の中に入っていけない。作品の中に陶酔を見出せない。こういう物言いは、古いであろうか?川端康成の作品は、今も多くの人に読まれ感動を与える。「雪国」に描かれた冷気、人差し指の匂い、闇の中の火事、天の河の広がりを思い出されたい。同様なことは志賀直哉の作品も然り、芥川龍之介の然りである。もちろんフロベール、ゾラ、モーパッサンも然りである。
今、若い人々の間で、あまり文学作品が読まれなくなっているという。当然だと思う。作品がつまらないからである。文章の一節一節が感動を与えてくれないからである。はたして百年後に残っているような作品が、現代にあるだろうか。これは、作家本人もそうだが、その作品を評価する批評家、あるいは編集者の責任でもある。あまりに安易に作品が書かれ、評価されている。ここには真の文学などありはしない。
文学は何処へ行ったか。
爽快倶楽部 編集長 伊藤秀雄




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