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爽快倶楽部編集部


平成21年12月1日
インターナショナル
インターナショナル、懐かしい言葉である。戦後、およそ70年安保までの間、日本の労働者、学生達によって唄われた歌である。日本各地で労働運動、学生運動が起こり、彼らによってその運動を象徴することとして、この唄が歌われた。インアターナショナルを歌う人々や団体は、一般に左翼と呼ばれ、共産主義、社会主義をその政治思想を掲げる団体と呼ばれた。
およそ、日本という国の形は、その為政者が変わったにせよ、国体として天皇を戴く国であった。これは歴史的に、天智、天武の律令制が形作られれ、倭が日本と称して以来、貴族政権、武家政権、さらに明治、大正、昭和、平成の現在まで続く日本の国の形である。その歴史的背景において、およそ共産主義あるいは社会主義は日本の国民性に浸透することはなかったことは周知のことである。
そうした国民性を持つ日本でインターナショナルが歌われたのは、その歌の意味するところから考えれば奇異に思え。だが、その本来の意味を離れて、戦前戦後と困窮に瀕した国民生活において、その反発としてまだ見ぬユートピアへの願望を表現するために、この歌があったと考えれば概ね頷けよう。実際、この歌を唄い真に共産主義、社会主義を目指したものはほとんどあるまい。インターナショナルはイデオロギーとは遙かはなれたところにある生活意識の表現に過ぎなかったと思う。
国民生活の困窮への反発としてインターナショナルがあったとすれば、この現在における国民の困窮と社会状況において誰もインターナショナルを歌わぬのは何故だろうか。現在労働者の多くが派遣労働としてその地位保全がされていない。企業の都合によって職を解かれる、そのことに反発する権利を持たない。これほどまでに労働者の基本権が機能していない事態は、少なくとも戦後社会ではほとんどあるまい。かっての日本であれば、そうした事態に全国各地で首切り反対のストライキが発生したが、今はそうしたことは皆無である。ここには、最早死語となった搾取とは異なった、派遣労働という新たな中間搾取が存在し、資本家と労働者という単純な構図が崩れた社会構造において、資本家、労働者がともに直接的に関係を持たない実態がここにある。それ故にこそ、労働者はかってあったようなインターナショナルを歌う場を失ってしまっているのである。
何かが狂っている、何かによって狂わされている、未来に対する漠然とした不安を超えた絶対的な絶望がここにある。
爽快倶楽部 編集長 伊藤秀雄




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