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爽快倶楽部編集部


平成21年10月1日
国家とは何か
政権交代によってもたらされようとしているものは、少なくとも三つある。国家組織の改変、外国に対する国家戦略の転換、そして行政による施策の変更である。
行政による施策の変更の象徴的存在となりつつある長野原町の八ッ場ダム建設中止について少し考えてみたい。
八ッ場ダム建設は1947年の台風による利根川決壊に、その対策として治水と利水を兼ねた計画として立てられた。62年前の話である。その計画において、吾妻川沿いの温泉街をを含む340戸の水没が前提とされ、地元住民は首都圏ために何故犠牲を強いられねばならぬとして、激しい反対運動を展開した。その後、国の度重なる懐柔により住民はこの計画を受けいれ、1992年に、ダム建設推進を前提とした協定書が長野原町、群馬県、建設省による3者の間で建設の協定が交わされた。それにともない、住民は代替地の引越しを行った。住民にとっては、まさに国に翻弄され続けた62年間であった。
それが、今新たに白紙の戻されようとしている。代替地において新しい生活を始め、暮らしの希望をダム建設に見出そうとしていた住民にとっては、茫然自失の出来事である。
公共事業全般は、その多くにおいて住民の犠牲を強いるものである。かって激しい反対闘争が行われた成田空港建設は記憶に新しい。国家が国民の生活に介入し、公共の利益の名の下に事業を推進する。国家があり国民として生活する限り、受け入れねばならぬことかもしれぬ。が、それはその事業が万人によって必要不可欠、やむなしと云う理由が存在することが前提である。この論に立てば、効用の少ない公共事業は中止してしかるべきである。一方で、すでに公共事業に呑み込まれた住民への救済、補償制度の法的整備も急がねばなるまい。
国家は、まず国家ありきとして存在し国民を庇護するものでありながら対立する。この意味で国家は巨大な暴力装置となる。この国家を手なずけ、国家の本来の目的である国民の幸福のために使うのは、国民に選ばれた政治家の責任である。戦前、戦後の政治において政治家は暴力装置の側に存在した。今、それを変えねばならぬ。さらに国家は行政組織という実体を持ちながら、一つの幻想として存在する。その幻想とは国民との法による契約である。幻想であるが故に、国家は如何ようにも変えることができ、変貌する。
政権交代の今、我らはあらためて国家とは何かを問わねばならぬ。
爽快倶楽部 編集長 伊藤秀雄




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