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爽快倶楽部編集部


平成20年12月1日
読書
自分も随分と歳をとって来たと思うようになった。手の平は若い頃とあまり変わったようには見えない。だが、甲を見ると波打つような大きな皺が数本、その間に細かい皺が無数にある。これが妙に気になる。若い頃は手の平を伸ばしても皮膚はぴんと張っていた。めったにしないことだが、風呂に入った折に、半身が映る鏡で自分の裸体を見ることがある。いまどきのメテボリック一歩手前の腹は出っぱっているため皮は突っ張っているが、後姿をみるともう自分でも嫌悪するほどに醜い。臀部が弛み、ちょうど垂れ下がった肉の先になんとなく皺があるような気がする。もちろん運動不足もあろうが、やはり加齢の結果であろう。若かった頃の記憶と現在の違いに愕然とする。形は、ある意味で他者にとってもそうであるように自分にとっても、その人間の本質である。人はこうして自分の歳を形として思い知らされる

体の衰えと同時に、最近は脳の心配をするようになった。ちょっと前に考えたこと、やったことをすぐに思い出せない。今、何を考えていたかなと思うことがしばしばである。幸いにもと云うべきか、少しの時間で思い出すことができるのだが、これが思い出せなくなった自分を想像すると、ぞっとする。

最近、脳の訓練にもなろうかと思い、小説をよく読むようになった。以前は時代小説などの所謂娯楽小説を読んでいたが、純文学と称する志賀直哉、川端康成、夏目漱石、芥川龍之介、モーパッサン、フローベール、ジッド、チェーホフ、ヘミングウェイなどを読んだ。図書館に行くとこれらの作者の本がそれぞれ全集として、あるいは文学全集の中の一巻として出ているのでそれを読んでいる。特に、志賀直哉、モーパッサンが実に面白い。それらは、およそ数十年あるいは百年近く前に書かれたものであるが。まるで昨日今日に起きた出来事のように読める。文化や生活様式は現在とはかけ離れているが、描かれた人々の心は今の自分とあまり変わらないように思える。その文学的な本来の価値が、これらの文学が時を超えて生き続けさせて来たのであろうが、自分が古い人間(といっても戦後生まれのではあるが)として古い日本の形を憶えているのが、より親しみを持って読むことができる理由かもしれない。最近書かれた現代の作家達の本も時折手にとってみるが、書き出しから1頁も行かずに本を閉じてしまう。理由はわからないが、言葉が体に沁みてこないのである。したがって読む本は、ほとんど戦前に書かれた本ばかりである。

再来年は還暦となる。あとどれだけ生きることになるのかは知らないが、生きている間は、こうした文学に親しみたいと思っている。そして。できることなら、若き頃思い馳せたごとく、自分のための、あるいは自分の周りにいる人達のためだけの小説を書くことができればいいと思っている。
おそらくは、見果てぬ夢に違いないのだが。
爽快倶楽部編集長 伊藤秀雄




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