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爽快倶楽部編集部


平成20年8月1日
老いてなお
最近、「暗夜行路」を読んだ。高校時代に一度この小説を手にとった記憶があるが、全編を読んだかどうかは記憶がない。恐らく投げ出したのであろう。志賀直哉、彼の文章には一切の無駄がない。今もなお、彼の文章は多くの現代作家の模範に違いない。彼の文章は読む側に極く自然に入ってくる。

ある新聞記者の取材記を読んだ。それは佐藤春夫の紹介によって、某新聞の日曜版の文芸欄に志賀氏の原稿をもらうために晩年の志賀氏の家に伺うことに始まる。志賀氏の会話は、選び抜かれた言葉使いに川端康成の文章論で言ったまるで「書くように話す」。一方で同時に、志賀氏が老いて書くことの難しさと、それゆえに無闇に原稿は出せぬというところに心動かされた。彼の作品は、われら凡俗の者にとっては想像もつかぬ苦痛の中で推敲に推敲を重ねる必要であったことは周知だが、本来寡作であった彼が、老いて後、更に寡作となったことの理由に、そうした文章や言葉への厳しさを持続しえぬことへの自制の念が、書けぬと志賀氏に言わせたのであるかもしれない。これは、かって書き残した自分の作品への作家自らの敬意でもあろう。

人にはそれぞれの老い方がある。いかに老いるか、老いていかに生きるかを考えておられる方もおられよう。志賀氏にならえば、老いた自分にあえて往年の自分の厳しさを求める生き方もまた楽しいように思う。老いては、何事も寡作でよい。納得できるだけの生き方でよい。

老いてなお、自らへの厳しさを忘れない。そう生きたいものである。
爽快倶楽部編集長 伊藤秀雄




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