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爽快倶楽部編集部


平成20年3月1日
自転車通勤
 自転車通勤を始めて4年になる。初めは電車やバスで通勤していた。電車で行く場合には私鉄2線とJRを乗り換えるため交通費が月2万円弱となり、零細企業としては馬鹿にならない。バスは運賃が安いが渋滞で時間がかかる。そこでふと思いついたのが自転車通勤であった。渋滞がない、人の混雑がない、何よりも交通費がタダというのがよかった。通勤時間はおよそ40分程度である。これも電車やバスよりも早い。自宅から会社の事務所に着くまでに3つの橋を渡る。江東区のほとんどの橋は道路より高く作られている。昇り降りが一苦労である。が、それも慣れた。自転車通勤を始めてから1年後に買った3段ギア自転車によるところも大きい。
 毎朝、およそ7時50分に家を出て事務所には8時30分頃に着く。途中、いくつかの公園の脇を通る。実はこれが楽しいのである。公園の木々が四季それぞれの表情をもっている。3月初旬であれば、桜の枝の先の蕾が日々少しづつ大きくなっていくのがわかる。早咲きの桜であれば、その蕾が薄く赤みを帯び始めている。桜が開花したときなどは見事な咲きっぷりとなる。散り始めの桜吹雪も趣がある。5月になれば、一斉に新緑となり植物の生命の強さを感じさせてくれる。夏には百日紅の花があちこちの公園で咲く。これが散れば秋となり、晩秋の紅葉が目を楽しませてくれる。そして山茶花の咲く冬となる。
 通勤途中には多くの小学生の通学の姿を見る。黄色い帽子をかぶりランドセルを背負った姿がかわいい。集団登校で六年生から一年生まで数珠繋ぎになって歩いている。元気な声で話し合ったり、ときにはふざけあって列を乱すものなど様々である。
 自分の父が今年の1月に死んだ。昨年11月半ばから肺炎で入院していた。入院当初、危篤と言われて夜半に病院に駆けつけたが、治療に効があって持ち直した。その後、2週に一度くらい、見舞いに行った。胸に呼吸補助のための管が入っているため話すことはできなかったが元気に見えた。暮れの29日に見舞いに行ったときには苦笑しながら腹をさすっていた。入院して以来、一度も口から食べ物を入れていないので、空腹を訴えていたのだと思う。これなら、やがて呼吸補助のための管もはずれ自呼吸ができるようになれば退院もできると希望を持った。見舞い中、気管にたまった痰をとる為看護士が胸から細い管を入れて掃除機のように吸引する。父はこれを嫌がった。苦しいのか身をよじる。思わず父の手を握った。吸引が終わった後、父が自分を見ながら声にならぬ声でありがとうと言った。唇の動きでそれがわかった。嬉しかった。
 明けて正月の2日、医師から肺炎が再発したので、再度集中治療室で人工呼吸器による強制呼吸を始めたいと連絡があった。かなり肺炎が進行しているという。翌日見舞いに行った。京浜急行の新逗子駅からバスに乗った。途中、長者が崎を過ぎたあたりから右手に富士が見えた。午前11時30分頃病院に集中治療室に入った。暮れに見たときとはまるで別人のような父がベッドに横たわっていた。顔の色は青白く目はくぼんで落ち込み、頬の肉も落ちていた。母と母の兄弟数人がベッドの脇に座っていた。自分の顔を見るなり−間に合ってよかったと言う。自分は、その意味をすぐには解すことができなかった。10分ほどして担当医師が病室に入ってきた。肺炎から全身に菌が回り多臓器不全の状態だと説明を受けた。父の頭側にある計器がその状態を示していた。血圧はすでに40近くなっていた。事実はそこに厳然としてあったが、それでもなお、自分はその事実を現実のものとして理解することができなかった。それから間もなくのことである。起伏ををもって心臓の動きを示す計器の波形が一直線に変化した。心臓の鼓動を示さなくなった。自分は父の手を握った。それまでの生の証を示すように温かかった。医師が死亡の確認をし頭を下げた。午後0時3分であった。享年83歳であった。看護士が身を清める間、自分達は病室の外で待ち、それが終わると父は霊安室に移された。霊安室で父の顔を触った。温かかった。病院で葬儀の手配を済まして後、東京へ帰るとき、病院の前の停留所からすぐにはバスに乗らず3つ先の停留所から乗った。理由はないが、ただ歩きたかった。帰りのバスで海を見たとき、もう富士は見えなかった。
 朝見る通学の小学生達はその両親に慈しまれ育てられていると思う。同時に、子供達も健やかな笑顔を両親に返し無上の幸福をもたらしているのだと思う。では、自分は父にとって良い子供であったのか、四十九日を過ぎた今、自転車のペダルを漕ぎながら、そう思う。
 事務所近くの公園の中を通ったとき、梅が咲いていた。
爽快倶楽部編集長 伊藤秀雄




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