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爽快倶楽部編集部


平成19年12月1日
再び、老いというもの
最近、自分の手の甲の無数のしわを見て愕然とすることがあった。いつからこれほどまでに皺が増えたのか確かな記憶を持っていないが、恐らくはここ数年のことと思う。自分の顔を鏡でじっと見た。顔に無数の皺が刻まれていた。目の下にたるみが見えた。
人が自らの老いを感じる理由とは様々であろが、もっとも直接的に感じるのは肉体的衰えであろう。老いは、決して突然に起きることではないが、人はその老いに気付かずに生きる、もっと正確に言えば、老いを漠然と感じつつもそれを認めずに生きる。そして、人生で初めて老いを認めたとき、その老いの深さに愕然とする。
人は死と戦うことができないように老いと戦うことができない。生誕と同時に老いへの時計が刻み始めるからである。人の宿命を考えれば老いと戦うことはいかに愚かなことである。肉体的老いをを見た時、精神の老いも受け入れねばならぬ。自らの老いを素直に認め、老いを老いとして生きる、そこにこそ老いた人の生きる場が見えてくるのではなかろうか。老いて悠々と天寿をまっとうする、かっての日本には余生という言葉があり、多くの老人がその名の通り余生を生きる術を心得ていた。同時に、社会も老人に余生を生きる場を与えていた。その余裕が老いた者に老いた者しか持ちえぬ生きるかたち与えた。植物は種として地中から養分を受け芽を出す。芽はやがて葉となり大木となる。そして実をつけ子孫を残し、いつか枯れてゆく。人も同様であろう。いかに枯れるか、それが老境のかたちであり生き方である。
諸氏よ、悠々と老いたまえ。泰然と老いを楽しみ生きたまえ。
爽快倶楽部編集長 伊藤秀雄




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