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爽快倶楽部編集部


平成19年11月1日
老いというもの
最近、川端康成の小説を読むことがあった。かって若かった頃に読んだ伊豆の踊り子、雪国、山の音や他の作品をあらためて読んでみると、又違った印象があった。彼の多くの作品の中に共通するものがあることに気がついた。死と虚無と割り切れぬものを無理やりに割り切ろうとする不条理である。多くの作品を残した後、彼は自殺した。73歳である。その理由は彼にのみにしかわからぬであろうが、その煩悶、苦悩の理由がそれらのうちにあった気がした。が、解けぬ疑問もある。何故、73歳という老いの中で自殺を選んだのか。
人にとって、老いは避けえぬものである。老いのかたちとして肉体の老いと精神の老いを考えるとき、川端はまぎれもなく肉体の老いにあった。精神はどうであったろう。老いてなお活発な創作、文壇活動を為していた川端にとって、その精神は老いていたとはいえぬと思う。むしろ彼の精神は、永遠の若さを蓄えていたのではないのか、そう思われてしかたがない。肉体の老いと精神の若さが同居する一個の人間、その精神が孤高の頂に立ち尽くすとき、肉体の老いを受け入れがたいものとして苦悩する・・・これは愚なる想像であろうか。
彼の小説の中に、女はかっての家父長制の中の女のように男に対して一段低く書かれている。が、低く書くことによって軽蔑していたわけではない。逆に、女にこそ、男が抱える性の不条理の救いとして書いているふしがある。これは、実は、川端の生き方そのものではなかったか、そう思える。
肉体の老いと精神の老い、この二つの言葉を併記するとき、これを肉体の老いと精神の枯淡に書き換えることができれば、もし、川端の精神が、精神の枯淡にあったなら、それによって晩年の活動が停滞しようとも、彼は自殺を選ぶことはなかったのかもしれない。
人は、誰もがいつまでも若くいたいと願う。だが、その老いに従って熟成し、やがて枯れていくことを待つのも、決して悪い選択ではない。
精神を上手に老いる、難しいことだが、老いを生きるための処世である。
爽快倶楽部編集長 伊藤秀雄




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