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爽快倶楽部編集部


平成18年12月1日
子供は大人の教師である
 つい最近、テレビ放送された映画を見て、もらい泣きをした。
途中から見たのですべてを説明できないが、時は昭和33年、東京タワーの完成する年である。駄菓子屋を営みながら子供向けの冒険小説を書いている店主茶川龍之介が、ひょんなきっかけで預かり、いつしか真実の親子のように心が通い始めた少年淳之介を、ある日、金持ちと思われる男が車に乗って迎えくる。別れ際、茶川が自分で使っていただろう万年筆を淳之介に渡す。茶川にできる別れのための精一杯の餞だったのだろう。が、迎えに来た男は、それを淳之介から取り上げ茶側に渡す。車は淳之介を乗せて走り出す。それを茫然と見送る茶川がいる。部屋にもどった茶川は、その別れのつらさに家中をめちゃめちゃにしてしまう。そして、部屋を飛び出し走り去った車を追いかけるかのように、下駄を音をけたたましく立てながら淳之介の去って行った道に向かって全速力で走りだす。そして、力尽き路上に倒れる。あふれ出る涙をふく。拭きながら、まだ涙で霞んでいる道の先にランドセルを背負った淳之介の姿を見る。二人の目が合う。淳之介は茶川に向かって走り出し抱きつこうとする。茶川は、なんでもどって来たんだ、向こうにはお金お金がいっぱいあるんだ、お前とは何でもないんだ、お前を養うのが大変なんだ、帰れと叫びながら抱きついてくる淳之介を突き飛ばす。何度も何度も突き飛ばされながらも、抱きついてくる淳之介がいる。やがて、茶川はしっかりと淳之介を抱きしめる。こうして茶川と淳之介は駄菓子屋に戻っていく。
 子供とは、親であれ、あるいは親代わりであれ、自分への愛を本能的に直感し、盲目的のその愛について行こうとする。無垢なのだ。自分に注がれる愛を信じて疑わない。今、時に親達が子を虐待し、時に死に至らしめることがある。又、子がいじめの中で、親の手を離れ自ら死を選ぶことがある。こうした子供たちは、本当に親達から溢れ出る愛を注がれていたのだろうかと思う。あるいは、普通の子供にとっても、本当の親の愛情を受けているのだろうかと思う。勉強し、良い学校に入り、大会社に入って欲しいと思うのが親の心の常である。いつか社会に出たときに、少しでも有利に生きていける条件だからである。だが、そうすることが、本当の愛情だろうか。子を抱きしめ、子と共に泣き、喜んだことがどれだけあるのだろうか。私自身を考えてみても、私は本当の父親になれなかったと思う。幸いにも、子は親以上に自分自身をしっかり考え、自らの道を歩んでいる。わが子は、少なくとも私より偉いと思う。
 親に、大人に出来ることは、溢れ出るほどの愛を絶え間なく子供に注ぐことである。子供は、そう我等に教えてくれている。そう思う。
爽快倶楽部編集長 伊藤秀雄




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