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爽快倶楽部編集部


平成18年3月1日
静かな金メダル
不振を伝えられていたトリノ・オリンピックの日本選手、最も期待されていた種目においてどれもメダルに届かなかった。世界の水準が日本を大きく上回っていた結果だろう。落胆の続く中、終盤になって女子フィギアスケートの荒川静香選手がメダルをつかんだ。ロシア、アメリカという強豪を凌いでの金メダルだった。彼女のフリーの演技を見た。素人目では、淡々とその演技は続いたように見えた。どの演技にも気負いや技術の優越性をアピールすることなく実に淡々としたもの、そう見えた。それはまるで無垢な天使のようであった。演技が終わって会場を埋め尽くす観衆のスタンディング・オベーション、解説者の話を聞いているうちに納得がいった。彼女の演技はすべてがレベル4という非常に高度な技術で構成されていた云う。淡々と見えたとは、彼女の演技が高度な技術の難しさを全く感じさせないほどに完璧だったからであろう。その他の選手では演技開始以前から緊張が見られ、その結果、要所で転倒やミスが見られた。だが、何故、彼女はそれほどまでに完璧な演技ができたのか。

彼女のトリノ・オリンピックへまでの道のりを伝えるドキュメンタリー放送があった。その中で、採点法の変更を巡って彼女には引退さへも考えた一時期があったとされる。以前の彼女の演技の質ではオリンピック出場さへもおぼつかない。彼女にとって、それまでに培ったすべての技術をを見直し、世界的なレベルのものとして再構成する必要に迫られたという。そこではトリノの氷上の演技に結実した完璧な演技のための壮絶な練習の積み重ねがあった。その結果、最初のショートプログラムでは1位、2位に対して僅差の3位となる。金メダルに非常に近い順位である。誰もが金メダル獲得への期待を持ち、同時に失敗したときへの慄きを持つ。そうした心の揺れが失敗を生む。彼女の演技はこうしたこととは無縁のように見えた。

静かな金メダルと呼びたいと思う。金メダルが決定した直後、彼女はまったくその実感がわかないと言った。それは、自らの信念にもとづいて自分の目標を目標通りにやっただけなのだ。世界は彼女のその演技に最大の賛辞と評価を与えた。

剣の奥義に無心というものがある。また、禅の心にも同様の考えがある。無心であること、無心となること、尋常にはできぬことである。人は誰も欲望を持ち、期待し、時に慢心する。或いは失敗への恐れを持ち萎縮する。彼女はそのすばらしい演技を通して無心の美を見せてくれたようだ。人は大事を為す時、無心となる、肝に銘じておきたい言葉である。同時に、その無心の何たるかを身を以って示した彼女の演技に最大の賛辞を送りたいと思う。
爽快倶楽部編集長 伊藤秀雄




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