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爽快倶楽部編集部


平成17年8月1日
六十年目の八月十五日
 六十年目の八月十五日。
 今、日本は内外において先の戦争の意味とその総括が問われようとしている。このことに比べれば終戦の日に一介の総理大臣の靖国神社参拝云々など枝葉末節の問題である。何ゆえ戦争は起きたのか、国民は真実戦争を支持したのか、日本の戦争遂行者を戦犯として裁いた東京裁判とは何であったのか、占領統治から再び独立国家として認めたサンフランシスコ条約の意味とは何であったのか、我々はこれらに対し明確な答えを未だ持っていない。
 日本の近代は黒船の登場から始まった。蒸気機関を動力とする鉄の船は江戸幕府による鎖国政策の下、世界から隔絶していた日本に大きな危機感をもたらした。その危機感は開国時の不平等条約に端を発し、イギリス、フランスをも巻き込み、日本の近代化のための大きな転回をもたらした。明治維新がこれである。維新政府は、西欧諸国のアジアでの跋扈を目の当たりにし積極的な近代化政策を行った。富国強兵政策は殖産を推し進め、日本の工業力を世界の水準近づけ、やがて日清・日露戦争を契機として列強の一画に日本を押し出し、日露戦争終結5年後には韓国を併合し日本の植民地となした。黒船が日本に現れて後、僅か数十年の出来事である。列強による、ともすれば日本さへも巻き込もうとするアジア太平洋地域における植民地政策に対し、日本は朝鮮半島、中国大陸を目指し、これに対抗しようとした。これが、日本近代のすべての戦争の遠因である。この歴史が語るのはアジア地域における西欧諸国の覇権の確立と日本の国家としての存亡をかけた攻めぎ合いである。日本は朝鮮半島を北上し中国経営に進出する。
 何故、日本は僅か数十年でこれだけのことをなすことができたのか。西洋の文化、技術を摂取し、それを自らの国に根付かせるという日本人の優秀さがその一つの要因と言えるであろうが、それ以上にこの国家的発展を支えた原動力とは、石炭をエネルギー源とした蒸気機関であり、水力による電気生産である。国内の工場は蒸気機関や電気によって生産性を拡大し、海外派兵においては蒸気船や蒸気機関車により兵を運ぶことができた。だが、世界はディーゼル機関の登場によって一変する。1894年、ルドルフ・ディーゼルは初めて安定したディーゼルエンジンの開発と運転に成功するが、これにより、工業、輸送は急激に石油を原料とする内燃機関に変わり、さらにガソリンエンジンの登場によって、高性能な自動車を生み出し、航空機の発明に寄与した。第一次大戦以降、戦争の主要な武器の一つとなった戦闘機は、その後の戦争形態を変えてしまった。時代は、石炭、電気から石油燃料、電気へと変わったいったのである。幸いにも豊富な河川を持つ日本は電気の供給力においては列強並みの水準をもって国内生産を維持したが、石油燃料については及ぶべくもなかった。事実このことは、戦後六十年後の今でさえも同様である。
 列強による東アジア経営に対抗する手段としての日本の海外派兵の維持にとって、この石油燃料が必須である。ここに、戦前の日本が戦争に走り出す直接的原因を持つ。太平洋戦争における軍国主義をもって、その戦争の主たる原因とする論があるが、およそ軍国主義というイデオロギーは戦争遂行の政治的手段であって原因ではない。
 今、太平洋戦史として、当時の戦争指導部が米国との戦争をどの程度継続可能であるか判断していたか明確に知ることができないが、現代の石油備蓄量を参考にして考えるならば、およそ半年、長くて1年が妥当な判断であったろうと思う。太平洋戦争における日本の効果的軍事行動はわずか1年ほどで後退を始める。だが、この事実は一般国民には全くと言って良いほど知らされていなかった。ここに、無謀な戦争継続のもうひとつの原因がある。国家による情報統制である。
 列強と伍するだけの石油燃料を持たず、兵力、装備補給も儘ならなかった戦争こそ、太平洋戦争の真実であろう。戦争末期、都市に降り注ぐ焼夷弾による大火災をバケツリレーで消火するなど、今考えれば児戯のごとくであり愚の骨頂であろう。或いは、米軍の本土上陸に対抗するための軍事教練を竹槍や木製の銃剣などをもってすることなど、あまりにも馬鹿げていたろう。だが、誰もがこのことを真剣にやった、やらざるを得なかった、ここに情報統制の恐ろしさがある。更に、強大な戦力の前にした玉砕や特攻は、前途ある若者達を死に追いやった戦争指導として、後史に残る愚挙である。
 今、東京裁判における戦犯の取り扱いに議論が起きようとしている。国内問題として考えるならば、児戯に等しい戦争指導の結果、甚大なる戦死傷者、被害をもたらした戦争指導部の責任は万死に値すると言って過言ではない。問題は、その裁判が日本国民によるものではなく、戦勝国によってなされたことである。戦後の日本はこの問題を避け、一億総懺悔という言葉によって曖昧にしただけである。その理由の一つとして天皇の戦争責任問題があるが、昭和天皇が自ら進んで開戦を勅したものではないことは明らかであり、当時の政府、軍部の責任回避のための詭弁に過ぎない。問題は当時の政府、軍部にある。
 戦争に正しい戦争というものはない。だが、時として歴史の渦が、戦争を起すこともある。戦後は終わったという。だが、この戦後六十年に当って、先の戦争とは何であったのか、その原因と遂行をよく考えなければ国民にとっての戦争は終わったと言えない。、そうでなければ、いつの日か愚昧なる戦争指導者が再び現われぬとも限らない。これから始まろうとしている内外の動きが、あまりに戦前に酷似していることに気付く必要があろう。
編集子




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